「アイデンティティ」という言葉が広まったのは、いつ頃からだろう。
最初の頃、意味がつかみにくくて困った記憶がある。「自己同一性」と訳されたって、それでは何も分からなかった。
▶岩波国語辞典初版(1963)
には存在しないが、日国には1970年の用例が載っている。
▶精選版 日本国語大辞典(2006)
*「ごっこ」の世界が終ったとき(1970)〈江藤淳〉「なにをやっても『ごっこ』になってしまうのは、結局戦後の日本人の自己同一性(アイデンティティ)が深刻に混乱しているからである」
「自己同一性」に「アイデンティティ」(音引きなし)のルビを振っておきながら、「自己同一性」という項目がないのは、精選版だけなのかどうか不明。
ともあれ、岩国も5版になると
▶岩波国語辞典5版(1994)
アイデンティティー それが、他とは異なる、まさにそのものであるということ。自己同一性。▷identity
とある(2~4版は持っていないので、これが初出とは限らない)
かたや新潮現代国語辞典には
▶新潮現代国語辞典初版(1985)
アイデンティティー(identity)自立的存在であること。また、自分が何者であるかの確証。独自性。同一性。
とある。
「新明国」は、3版(1981)には載っていないが、4版に至って
アイデンティティー[identity=自己同一性]自分という存在の独自性についての自覚。
「三国」の4版には
▶三省堂国語辞典4版(1992)
アイデンティティ(-)[identity=自己同一性]自分は自分であって他人とちがう、ということ。存在(ソンザイ)証明。自己証明。個我(コガ)。
音引き「-」が括弧付きになっているのが、さすが。
そして、意外な伏兵、角川必携
▶角川必携国語辞典(1995)
アイデンティティー 自己同一性。自己証明。|identity
これじゃ何も分からん…と思ったら、
じこどういつせい【自己同一性】いつどんなときでも一個の人格として存在し、自分が自分であることを確信すること。アイデンティティ。▷心理学用語。
と、少し詳しい説明が。しかも音引きなし。別の人が語釈を書いたか?
で、「自己同一性」がどう説明されてるか、いろいろ見てみたら、
▶新潮現代国語辞典初版
項目なし(「同一性」もなし)
▶岩波国語辞典8版(2019)
項目なし。
▶明鏡国語辞典3版(2020)
項目なし。
項目なし。
▶三省堂国語辞典8版(2021)
自己同一性〔⇒アイデンティティ(ー)①〕
というのが載った。ちなみに7版(2014)以降のアイデンティティは、①として4版と同じ語釈がある他、②が追加されている。
アイデンティティ(-)②自分はこういうものだ、これに属している、という意識。「日本人としての―」
たしかにこれは必要だろう。
他に「自己同一性」の項目があるのは、まず大辞林。「同一性」を見るよう指示され(アイデンティティーの項目でも「同一性」を見ろと言われ)
▶大辞林4版(2019)
どういつせい【同一性】①物がそれ自身に対し同じであって、一個の物として存在すること。自己同一性。
これでは分からん。次は、旺国。
▶旺文社国語辞典11版(2013)
じこ-どういつせい【自己同一性】→アイデンティティー
そして
アイデンティティー〈identity〉自分は他者とは異なったこのような人間であるという明確な存在意識。自己同一性。「―の確立」
「日本人のアイデンティティ」のような用例には対応していない。次に、高校生指向のこれ。
▶三省堂現代新国語辞典6版(2019)
じこどういつせい【自己同一性】⇒アイデンティティ(-)
そして
アイデンティティ(-)〔identity〕①自分は自分であって、他人とはちがう、ということ。自己の明確な存在意識。自己同一性。「―の確立」②他には代えられない独自性(への帰属意識)。「ナショナル―」
①は三国と同じ。②は三国の方が分かりやすい気がする。でもまあ「高校生の評論読解」を指向しているだけのことはあるか。
「現国例」には、「自己同一性」が子項目としても存在しないが、「アイデンティティ」はもうちょっと詳しく、
[アイデンティティ]⦅アイデンティティー⦆(英identity)①他とはっきりと区別される、一人の人間の個性。自分が独自性をもった、ほかならぬ自分であるという感覚。「アイデンティティの喪失」「日本人としてのアイデンティティ」▷個人だけでなく組織や集団、民族などについてもいう。
おまけにその表記が、「アイデンティティ」なのか「アイデンティティー」なのか、さらには「自己同一性」なのかを、コーパスに基づいて述べているところがユニーク。
それによると、書籍や国会会議録では90%以上が「アイデンティティ」だが、雑誌では57%、ブログでは53%であり、「自己同一性」という表記はゼロなのだという。
――だから「自己同一性」という言葉を語釈でも使わず、項目も立てていないのか。これはこれで見識。
他方、同じく高校生指向のこれは、「自己同一性」の項目がないのに、「アイデンティティー」の語釈に「自己同一性」が出てくる。
▶学研現代新国語辞典6版(2017)
アイデンティティー ①自分が自己自身であると感じる場合の、その感覚や意識を言う語。自己の存在証明。自己同一性。主体性。「―の喪失」「―の確立」
コラム「評論文キーワード」に、22行にわたって詳しい解説が書かれてはいるけれど。
で、高校生の国語力のための辞書といえば、これ。
▶ベネッセ表現読解国語辞典(2003)
【自己同一性 じこどういつせい】→アイデンティティ
に導かれてアイデンティティの頁を見ると、
なんとまるまる3ページにわたって、語釈だけじゃなく分かりやすい用例がみっちり。圧巻。圧勝。
やっぱ、これ名作。
全ての高校生は、ベネッセ表現読解国語辞典を読むべきだ
と再認識。
ちなみに「自己同一性」の項目が(子項目としても)存在しないにもかかわらず、「アイデンティティ」の語釈に「自己同一性」という語を使っている辞書の編者の皆さんはどう思われるのか、ぜひ訊いてみたいもんである。