非常に大雑把に言えば、
近世、五段活用の動詞から「可能動詞」が生まれた。
たとえば「読む+れる=読まれる⇒読める」
つまり「yomareru⇒yomeru」:消えた音は、「ar」
最近の「ラ抜き」と言われるものも同様で、
たとえば「来れる」は「korareru⇒koreru」
消えた音はやっぱり「ar」
という話はワタクシの発見ではなくて、何かの本で読んだんだが、書名は失念。
だがいずれにせよ、可能の「ラ抜き」(ほんとはar抜き)は、歴史の必然だと思うんだけれど、
動詞(の活用の種類)によってその変化の速度は異なって当然で、
カ行変格活用たる「来る」は、上一段や下一段より「可能動詞化」が進行しているんではなかろうか。
①(カ変)「来れる」
②(上一)「見れる」「着れる」
③(下一)「出れる」「食べれる」
ワタクシは、②と③は(無理しているわけではなく)使わないが、①「来れる」は、すでに使っている。
こころみに、手もとの辞書をかたっぱしから引いてみると、
▶大辞泉 2版
には、「来れる」「見れる」「着れる」「出れる」が立項されていた。
▶大辞林 4版
には、「来れる」と「見れる」は立項されていたが、他はなかった。
他の辞書には(新しいものをどんどん取り入れるはずの「三国」も)、ひとかけらも載っていない。
「誤り」という記述さえない――そもそも立項されていないのだから。
最新第8版三国に採用された「エモい」よりも、よっぽど定着していると思われるんだが、なぜ無視し続けるんだろうか。
もっとも、助動詞「れる」が五段・サ変以外の動詞にも接続するようになった、という解釈もあり得るし、それならわざわざ「新たな可能動詞」として立項するまでもない、ということにはなるけれど。
実際、明鏡3版は、「れる」の「注意」で、こう書いている。
▶明鏡国語辞典 3版
上一段動詞・下一段動詞・カ変動詞の場合は、未然形に「られる」がついた…形が標準的だが、…「れる」を付けて使うこともある(ら抜き言葉)。日常会話では多く使用されるが、書き言葉では抑制される傾向がある。
載っているだけマシとはいえ、「日常会話では多く使用される」という認識があるなら、もうちょっと違う扱いがあるんではなかろうか。